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執筆者の写真mujigae

うれしい声かけ、怒りに変わる声かけ



今日、子どもと散歩にでかけたときのこと。買い物を済ませて帰路に着くと、途中で家へ帰りたくないと大泣きした。

我が子の鳴き声は非常に大きい。住宅街と畑に面した道をなんとか家へ向かって進んでいた。


すると、我が子の声を聞いたのか「トマトあげようか〜?」と、おばあちゃんの招く姿が見えた。

我が子もスッと泣き止んで、おばあちゃんの方へかけ寄って行った。手には取れたての立派なミニトマトが光っている。


手渡されたトマトを見て、我が子はすっかりキラキラのトマトに夢中になった。

畑から野菜を摘み取るおばあちゃんの姿にも興味津々だ。

結局、ミニトマトや大葉、きゅうりをたくさん分けてもらった。


おかげで私たち親子は「トマトさん帰ったら食べよう」と言いながらスムーズに帰ることができた。


野菜をいただいたこともありがたかったのだけれど、なんとも子どもを夢中にさせるのが上手というか。

「余らせちゃうだけだから、いつでも声かけて」と、こちらを気遣ってもらったのも嬉しかった。

人によってはありがため迷惑に感じる人もいるかもしれない。

でも、おばあちゃんは野菜をあげるという行動で、さりげなく子どもの関心を引き私を楽にしてくれた。


ある店員のモヤモヤする声かけ


一方で、近所の商業施設へ子どもを連れて行ったときのこと。


Aの店に並んでいるパンをBの店でチェックしたいと泣き出した。

「このパンはこっちのお店でピッピするんだよ」と、言っても、もうパニック状態で聞く耳はない。


そんな私たちの前に、店内を巡回していたお店の人がニコニコして現れた。

そして、私の前に立ち「お母さん大丈夫ですか!?」と、元気いっぱいに言うのだ。


私は奇妙に感じた。

泣いているのは子どもなのに、なぜ、私に声をかけるの?と。

とりあえず会釈をしてかわし、なんとか子どもの説得をつづけた。


我が子はなかなか泣きやまない。

しばらく店の中を練り歩くことになった。


すると、またあの店員だ。

また私に「お母さん、大丈夫ですか!?」と聞いてきた。

私のモヤモヤが溢れかえった。


(どう見ても、大丈夫なはずないでしょ?)

(子どもは気持ちが収まらなくて大変なのに、親が「大丈夫です」なんて言えるわけないでしょ?)

(っていうか、それは思いやりなんですか!? 自分に酔ってませんか?)

(つまり、偽善!?)

(第一、大丈夫じゃないですって言って何かしてくれるんですか!?)


私の中にあった奇妙さ、もやもやした感覚はたちまち怒りに変わった。

気づくと「すみません、かかわらないでください」と、その店員に言い放っていた。

我ながら大人気ないなと思ったのだけれど、グズる子どもの親にその声かけはやめてほしい。


きっと、

「お困りですか?」とか、

「嫌なことがあったのかな?お手伝いできることはありますか」みたいな声かけだったら嬉しかった。

コロナ禍に大声で泣く子どもがいると、嫌でも周囲の目が気になる。

一緒に解決してくれる姿勢を見せられたら、すがってしまっていただろう。

(決してそこまでのことを求めている訳ではありませんよ!)



おばあちゃんは子どものため、私のために動いてくれた。

店員はどうだろうか。

私に同情したのかもしれないが、少なくとも私の子どもへ配慮した訳ではなかった。

この行動の差に、私は大きな差を感じてしまう。


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